まんが おかざきのれきし 第1巻

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もくじ
ごあいさつ /  やってみようAR /  ファイルダウンロード /  作品一覧 ※ネタバレあり

 

ごあいさつ

かつて東海道には、岡崎宿と呼ばれる宿場がありました。行き交う旅人や町に暮らす人々で、大層にぎわっておりました。
そんな岡崎宿のにぎわいを、ちょっとだけのぞいてみましょう。
4コマまんがとAR(拡張現実)を手に携えて、まちあるきを楽しみながら自分だけの岡崎宿の物語を作ることができます。気づいたら前よりもちょっと歴史に詳しくなっていること間違いなし。テストには出ないけどためになる?"なんちゃって"歴史まんがです。

やってみようAR

※2017年12月現在、アプリ「Aurasma」は「HP Reveal」に変更されています。基本的な操作は同じですので、以下適宜読み替えてください。

  1. 「まんが おかざきのれきし 第1巻」のpdfファイルを紙に印刷するか、もしくは印刷された現物を入手して、「あそびかた」に記載されている通りに紙を切り取ります。
  2. App StoreまたはGoogle Playから、アプリ「Aurasma」をダウンロードします。紫色で「A」をモチーフにしたアイコンが目印です。
  3. アプリをダウンロードしたら起動します。位置情報取得についての確認画面が出ますが、今回は使用しないので「許可しない」を選択してください。
  4. 右にスワイプして最後の画面になったら「skip」を選択してください。
  5. カメラが起動して7つの白い丸が画面に現れたら、画面下部中央にあるアイコンをタップしてください。

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  6. 画面下部にある虫眼鏡のアイコンをタップし、検索窓に「aneko」と入れて検索します。検索結果が出てきたら、「aneko's Public Auras」を選択してください。

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  7. 「aneko's Public Auras」の画面になったら、右上の「FOLLOWING」をタップしてフォローします。文字の横にある丸が○(塗りつぶされていない丸)から●(塗りつぶされた丸)になればフォロー完了です。画面下部中央の四角形のアイコンをタップすると、カメラが起動して7つの白い丸が現れます。
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  8. まんがの表紙(下の画像)にカメラをかざしてください。
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  9. 最初は画面上で7つの白い丸が動いていますが、しばらくすると二重丸が画面に表示されます。そのまま端末を動かさずに待つと、ARが現れます。
  10. ARが現れた後、画面下部中央にあるカメラのアイコンをタップすると、写真が撮影できます。
  11. 切り取った4コマまんがの3コマ目と4コマ目が画面に入るように、Aurasmaのカメラ画面を4コマまんがにかざすと、ARが現れます。カメラのピントが4コマまんがにあうようにするのがポイントです。
    好きな場所を4コマまんがの背景にして、いろいろなお話を作ってみましょう。
  12. また、4コマまんがの裏面にAurasmaのカメラ画面をかざすと、解説ページへのリンクが現れます。リンクをタップすると、解説ページに移ります。
ファイルダウンロード

pdfファイルをダウンロードできます。個人で楽しまれる範囲においては、ご自由にダウンロードして遊んでください。

紙媒体またはデジタルデータかを問わず、下記の行為は禁止します。

  • 無断での転載、利用、加工および再配布
  • グループや商用目的での利用
  • ファイルへの直リンク

次の場合はお問い合わせください。

  • 学校(課外活動含む)における教育目的での利用

なお、地図の作成にあたり、地図データはOpenStreetMapを利用しています。そのため、地図の部分に関してのみOpenStreetMapのライセンスに従います。詳細はこちらからご確認ください。

画像をクリックするとpdfファイルが開きます。

きっかけはあわ雪茶屋でした

以前に作品を作っていますが、ここでも再登場。
作品「あわ雪茶屋」はこちら

「あわ雪茶屋」は、東海道岡崎宿の東のはずれにあったとされる茶屋です。あわ雪茶屋で出されていたメニュー「淡雪豆腐」がとても有名でした。
淡雪豆腐は豆腐のあんかけ料理で、あわ雪茶屋ではご飯と香の物が付いた定食として提供されていたようです。
例えば、『名勝志』には「貴人も賢人も必ず立ち寄って淡雪豆腐を賞味した」と記されており、あわ雪茶屋の人気の程がうかがえます。(『岡崎市史 第3巻』229ページ)

これほど有名だったあわ雪茶屋ですが、実は現存はしていません。さらに、建物の外観や大きさのみならず正確な場所さえも不明です。投町(現在の岡崎市若宮町)にあったということだけわかっているので、地図に示した「まんがの舞台」では、岡崎げんき館の南東隅、石のモニュメントと東海道の解説の石碑が立っている場所を示しておきました。

また、この石碑から南に90メートルほど下ったところに、冠木門のモニュメントが建っています。このあたりから岡崎宿の入口であり、東海道二十七曲りの始まりといえます。

さて、あわ雪茶屋で出会った2人は、このあとどうなるのでしょうか?
背景1つで、2人の関係も全く異なるものに変わります。
例えば、

雷が落ちる、火花が散る背景なら犬猿の仲
少女まんがによくある、点描やキラキラ光る背景なら素敵な出会い

これだけでもずいぶんストーリーが変わっています。
とりさんたちの気持ちを表現している風景を探すのはもちろん、まんが制作で使えるような背景やトーンのフリー素材を使ってもおもしろいと思います。

「あきば」違いだけどあながち間違いじゃない

秋葉山常夜燈は、静岡県浜松市にある秋葉山の神様・秋葉権現を信仰する人々が、町や村に建てた石の燈篭です。

秋葉権現は火伏の神様、つまりは火災予防の神様で、広く人々の信仰を集めました。例えば、岐阜県美濃加茂市のうだつのあがる町並みで有名な地域では、現在でも家々の玄関に秋葉山のお札が掲げてあります。特に三河地方では、岡崎が石の一大産地であるためか、石燈篭を建てた点が他の地域と比較して特徴だといえます。

題名にもなっている「あながち間違いじゃない」理由ですが、秋葉原の地名の由来にあります。
諸説あるうちの一つですが、明治時代に入るころ、かの地に秋葉権現が勧請されると人々の間で話題になり、現在の秋葉原の地域を「秋葉さん」と呼び始めたことに由来するそうです。結局、秋葉権現が勧請されるという噂は間違いだったのですが、「秋葉さん」という呼び方は残ったようです。

秋葉権現つながりだから、「あながち間違いじゃない」んじゃないかな?と思い、タイトルを付けました。実際、私も初めて秋葉山常夜燈の存在を知ったとき、秋葉原と何か関係があるのかと思いました。
現在の秋葉原といえばオタクの聖地「アキバ」です。秋葉権現は勧請されなかったものの、多種多様なネ申が人気を集めているという点でも似ているよなあと思います。

ちなみに秋葉山常夜燈は、岡崎宿の範囲だけでなく、東海道沿いを中心に岡崎市内に広く建っています。中には、現在でも地域の方が火を灯しているところもあるそうです。
みなさんのお住まいの地域にも、もしかしたら常夜燈があるかもしれませんね。常夜燈は大きさや形もそれぞれ異なるようなので、いろいろな常夜燈を背景にして4コマ目を作ってみたい、というのがひそかな目標でもあります。

宿場町では現金払いでお願いします

宿場が設けられた岡崎ですが、その機能の中心は伝馬町にありました。参勤交代の大名が主に宿泊する本陣・脇本陣や、一般の旅行客向けの宿泊施設である旅籠・木賃宿が建てられたほか、荷物を運ぶための人馬の提供も伝馬町に課せられた仕事でした。
残念ながら、現在の伝馬通りにはそうした建物は現存しておりません。太平洋戦争時の空襲で、中心市街地の建物は大半が焼失してしまっています。かろうじて「○○跡」の石柱が立っている程度です。江戸時代の雰囲気がわかる建物としては、一般の商店になりますが大黒屋薬局と永田精肉店、糸惣くらいです。

さて、伝馬町にも数多くあった旅籠ですが、旅籠には飯盛女(めしもりおんな)と呼ばれる女性がいて、宿泊客をもてなしてくれました。身の回りの世話だけでなく、唄や三味線、踊りが上手な飯盛女が多く、次第に飯盛女目当てに地元の人が遊びにくるようにもなったそうです。「岡崎女郎衆はよい女郎衆」というのは実際に小唄に歌われた歌詞とのことで、道中日記など色々な文書にも岡崎宿の飯盛女が素晴らしいと記されているほど、評判が高かったようでした。
このように、飯盛女の人気のおかげで旅籠が繁盛したので、どの旅籠も競って飯盛女を雇うようになりました。次第に、今でいう歓楽街の様相を呈すようになってきたため、旅籠で雇うことのできる飯盛女の人数が制限されるほどでした。
ところで、気になる飯盛女のサービス料ですが、旅籠1泊分と同じくらいの値段でした。いつの時代も、いい女には弱いものなんだなとしみじみ思います。

ちなみに、江戸時代の物価は時期によりだいぶ差があるようですが、今回は1文=だいたい20円くらいを想定しています。うどん1杯=16文=約320円、旅籠に1泊=300文=約6,000円です。現在の価格帯でいえば、安めの素うどんやビジネスホテルといえそうです。

最後に、この話の元ネタですが、言わずもがな某クレジットカードのCMです。なので4コマ目の背景は、CMに近づけるなら真っ黒、王道なら旅籠っぽい町家(余談ですが、愛知県豊橋市にある二川宿本陣資料館には1度行ってみたいと常々思っています)、ウケ狙いで古銭の画像・現在の札束なんかも面白そうです。
あと、伝馬通りから西へ進んだ、御馳走屋敷跡の向かい側に岡崎信用金庫資料館があります。写真撮影はできないのでまんがの背景にはできませんが、お金にまつわる展示をしていてなかなかおもしろいので、興味がある方はぜひどうぞ。

御馳走屋敷のおもてなし

江戸時代には、現在の岡崎信用金庫資料館(岡崎市伝馬通)の南側に、御馳走屋敷と呼ばれる建物がありました。朝鮮通信使など、大事なお客様を接待する場所でした。
残念ながら建物は現存していませんが、地図を見る限り、敷地はかなり広く、部屋数も多い建物だったことがうかがえます。一度にたくさんの人が訪れるので、台所での調理からの配膳はきっと戦場だっただろうなと思います。
また朝鮮通信使の記録には、「大層丁寧にもてなしてもらった」との感想が残っています。

賓客をもてなすための場所なので、室内の意匠やお庭もさぞかし立派だっただろうなと想像しています。 障子を開けたときに何が見えるのでしょうか。立派な庭園?それとも…?
険悪な雰囲気のとりさんたちが思わず喜ぶ、いいものが見えることでしょう。
正統派もよし、大穴狙いもよし、お好きな風景をあてはめてみてください。

ばけねこ が あらわれた!

日本三大化猫騒動と呼ばれるお話がありまして、岡崎の化猫はなんとそのうちの1つです。

実際に化猫がいたというよりも、歌舞伎の演目として、架空のお話として楽しまれていたと思われます。
なぜまんがの舞台をあの場所に設定したかといいますと、東康生商店街組合が化猫でまちおこしに取り組んでいるからです。まちおこしの一環として、地図で示したあたりには石でできた化猫の彫刻が設置されています。どんな化猫なのか、ぜひ確かめてみてください。

大名行列 アイドル?伝説

大名行列が通過するとき、庶民は道端で頭を下げるものだというイメージがありますが、徳川将軍家以外の行列はそうでもなく、隅に寄って通行できるだけのスペースを空けていればよかったようです。
行列の見学は庶民にとって楽しみだったようで、あれこれとおしゃべりしながら満喫していたのかもしれません。現在の私たちが、有名人のパレードを楽しんでいる感覚に近いですね。

実は没にしたネタで、江戸時代の「会いに行けるアイドル」ことお茶屋の看板娘がありました。まんがの舞台に設定しているあたりを板屋町といいますが、板屋町は江戸時代にはお茶屋が立ち並び、明治時代は赤線地帯(遊郭)としてにぎわいました。現在でも、岡崎市の中でも数少ない、古い町並みの面影が残る貴重な地域です。そこで、お茶屋の看板娘のネタで4コマまんがを作ろうと考えていましたが、これだ!という話が思い浮かばなかったので今回は採用を見送りました。もしかしたら、別の機会に使うかもしれません。
そんな経緯がありまして、看板娘がA○Bならいっそ大名行列の殿様と家臣団はジャ○ーズなんじゃないかということで、コンサートよろしくうちわで声援を送っています。

さすがに江戸時代にうちわで応援する文化や風習はなかったと思いますが、殿様に直接自分の思いを伝える手段が全くなかったわけではありません。駕籠に乗っている殿様に庶民が直接要望を申し上げる、「駕籠訴(かごそ)」と呼ばれる手段がありました。しかし駕籠訴は御法度で、厳しい処分が下されました。重罪とされた駕籠訴ですが、役人の不正や横暴に耐えかねて、駕籠に乗って城下に来た殿様に直訴した人も何人かいます。もしお住まいの地域で「義民」として称えられている歴史上の人物がいたら、駕籠訴をしていたかもしれません。

ちなみにうちわに書いたメッセージは、
こっちみて
ういんくして
ゆびさして
ぴーすして
となっています。はたして、殿からファンサービスはもらえたのでしょうか。

五万石でも岡崎様はお城下まで舟がつく

岡崎では古来から矢作川とその支流の水運を利用した水上交通が盛んで、江戸時代には「五万石でも岡崎様は お城下まで舟がつく」とうたわれました。
それを示すかのように、岡崎城の川沿いの石垣には凸形に飛び出した部分があり、そこが船着き場だと考えられてきました。

しかし、平成27(2015)年度に石垣の発掘調査を行ったところ、地中に埋まっていた石垣の存在がわかり、船着き場だと考えられていた場所が実は横矢枡形といわれる構造だとする発見がありました。
現地説明会の様子はyoutubeで視聴できます。こちらからどうぞ。
今後の詳細な調査と整備が楽しみである一方で、船着き場とされていた箇所には船着き場の説明看板(わりと新しい)があり、石でできた五万石舟のモニュメントもあります。これらの扱いは今後いったいどうなるのでしょうか。モニュメント然り工作物然り、一度何かを作って設置すると、日常の維持管理はもちろん、今回のような新発見があるったときにどう修正すればいいのかは悩ましい問題です。
ちなみに、石垣の名前は「菅生川端石垣」ですが、河川としては乙川が正式名称で、地元の方は乙川のうち岡崎城の前を流れる部分を菅生川と呼んできたそうです。

「お城下まで舟がつく」ということで、このまんがでは実際に好きな場所に舟を着けることができます。かつての本当の船着き場とされる場所、本丸や秘密基地など、ここだ!と思う場所に五万石舟を到着させてみてください。

エクストリーム矢作川渡り

東海道で1番長い橋として、矢作橋はとても有名でした。「東海道五十三次」をはじめとした名所絵でも、矢作橋はよく描かれました。江戸時代の矢作橋は、現在の矢作橋から南に約100メートルの位置にあったとされています。現地に看板等がないので詳細は不明ですが。

矢作橋はその長さのためか、小規模な改修や大規模工事も頻繁にあったようです。特に幕末の頃は、橋が壊れても直すだけのお金がなかったため、明治時代に新しい橋が掛けられるまでの約20年間、東海道を行き交う人々は舟で矢作川を渡っていました。

4コマまんがでも、橋が壊れて通れないとりさんが舟で矢作川を渡ります。しかしそこに、とんでもない渡り方をする猛者が現れます。
フィーエルヤッペンでぜひ検索してみてください。説明もいいですが、動画を見ていただくのが一番わかりやすいと思います。よく考えついたよなぁと感心します。