あわ雪茶屋の話 その2

その1で、「あわ雪茶屋」は実在したお店だけれども、正確な場所はわかっていないというお話をしました。
「あわ雪茶屋の話 その1」はこちら

その2となる今回は、作品の舞台となるあわ雪茶屋の建物について紹介していきます。

作品の中では入口とその横の壁しか建物は作っていませんが、実は最初、建物全部を作って、屋根をはずすと中が見えるようにしたいなと思っていました。
そうなると当然、いろいろな資料が必要になるわけです。現在も文化財として残っているような建物や、現存していなくても詳細な記録が残っている建物なら、まとまった本や報告書もありますが、あわ雪茶屋に関してはそのような資料は見つけられませんでした。そうなると、自分で探して考えるしかありません。

まず、『新編岡崎市史 第20巻 総集編』と『岡崎宿伝馬』から、投町(現在の愛知県岡崎市若宮町)にあったということはわかりました。建物全体の様子が知りたいとなると、文章での記録よりも絵画のほうがわかりやすいです。それに、文章での記録があれば専門家の方がもう少し場所も特定できていたんじゃないかなと思います。なにより私は古文書が読めませんし、たとえ翻刻されていても意味がわかりません…。というわけで、岡崎宿の投町が描かれた地図がないものかとあれこれ探し、出てきたのが次の2つです。

寛政二庚戌年 三州岡崎領往還略絵図
『岡崎市史 第3巻 近世(本文編)』の29ページに収録されています。略絵図という名前なので省略されている部分も多いのでしょうが、1つ1つの建物の様子はわりとよくわかります。また、町名も記載されているので、どこからどこまでが1つの町だったのかもわかります。どれがあわ雪茶屋だったのだろうかと絵図を見ていると、投町内の建物の中で2軒、他に比べて特徴的な建物があります。

まず1軒目は、茅葺屋根の建物です。投町内の建物は瓦葺(屋根に瓦がのっている)と思れる建物がほとんどですが、1軒だけ茅葺(屋根が茅でできている)の建物があります。
江戸から大阪へ(つまりは東から西へ)東海道を進んでいくと、岡崎宿の入口は投町になります。投町に入って90メートル弱ほどの区間は街道は北に進み、その後西へ折れ曲がります。そして街道が折れ曲がるところに、もう1本、北東方向へ向かう細い道が絵図に描かれています。その細い道が東海道へ合流する地点、道の北側にぽつんと描かれているのが茅葺屋根の建物です。この茅葺屋根の建物の東側には何も描かれていないので、屋根が他と違うことと相まっていっそう目立ちます。さらに、茅葺屋根の建物は北東へ向かう細い道に面しているため、他の東海道沿いの建物と比べ奥まって描かれています。絵図の中には街道から分かれる細い脇道がいくつか描かれていますが、この茅葺屋根の建物以外、脇道に面して建つ建物は描かれていません。そのため、茅葺屋根の建物だけわざわざ描かれたように見えます。

もう1つは、板葺(屋根が木の板でできている)と思われる建物です。こちらの建物は、南北に通っていた東海道が投町で西に曲がって少し進んだところ、街道の北側にあります。投町内の建物の屋根は、ほとんどが薄く色を塗っただけで描かれていますが、この建物だけは、漢字の「井」を並べたような、上下左右に引かれた直線が屋根に描かれています。これが具体的にはどういう状態なのかはわかりませんが(そもそも板葺ではないかもしれませんが)、こちらもまた他と違うために目を引きます。

東海道分間延絵図
江戸時代の東海道の様子を記した地図です。書籍のほか、東京国立博物館の画像検索で見ることができます。縮尺が約1,800分の1で描かれており、距離はほぼ正確だと言われています。建物については記号化して描かれており、お城や寺社のような特徴的な建築物でないと区別はつきにくいです。
三州岡崎領往還略絵図で見た2つの特徴的な建物も、たぶんこれかな?というくらいで、正確にはどの建物なのかはわかりませんでした。東海道分間延絵図が完成したのが文化3年(1806)なので、寛政2年(1790)の三州岡崎領往還略絵図と単純に比較はできないかもしれませんが、投町の様子については両者を比べて全く違うというところもないので、両者はだいたい同じ時期の街道の様子を描いていると考えてもいいのかなと思います。

ここで、「そもそも、この2つの絵図ができたときにあわ雪茶屋が存在したの?」という疑問がわきます。
『岡崎市史 第3巻 近世(本文編)』238ページに、土御門泰邦『東行話説』に、あわ雪茶屋で休んだと記録されているとあります。この『東行話説』は宝暦10年(1760)の旅の記録とのことです。また、文政7年(1824)の『三河名勝志』にも岡崎宿の東入口の茶店で淡雪豆腐が売られていたという記録があります。(遠山佳治『岡崎の名物「あわ雪」の歴史』)
これにより、少なくとも宝暦10年(1760)~文政7年(1824)にはあわ雪茶屋があったことがうかがえるので、上記の絵図が描かれた時期には、あわ雪茶屋があったと思われます。

しかし、この2つの絵図を見ても、あわ雪茶屋がどこにあったのか、どんな建物だったのかは結局わかりませんでした。

なので、作品で作ったあわ雪茶屋の様子は、私の空想の産物です。
ただ、何の手がかりもなく作ったかというとそうではなく、三州岡崎領往還略絵図に描かれていた、茅葺屋根の建物を基にしています。投町の建物の中でも茅葺屋根が目立つこと、また、東海道から少し奥まったところの建物をわざわざ描いたように感じられることが、この茅葺屋根の建物が重要だったのではないかと思わずにはいられないのです。そして、わざわざ描くほど大事な建物ならそれは、岡崎宿の名物として有名だった淡雪豆腐を出す「あわ雪茶屋」に他ならないのではないかと。
そう思ってあわ雪茶屋を茅葺屋根の建物で作ろうとしましたが、それだけのものを作れるだけの実力がないことと、作りたいのは茅葺屋根の建物ではなく、「そこで何が起こっていたか」がわかる風景だったので、思い切って建物全体を作るのをやめて、入口と壁だけを作ることにしました。

いつか建物1軒まるっと作れるだけの実力がついたら、再挑戦したいです。お運びしているとりさんとか、昼間からほろ酔いのとりさんとか、皿洗いしているとりさんとか、あわ雪茶屋で繰り広げられていた風景はまだまだあります。残念ながらあわ雪茶屋は現存していませんが、だからこそ自由に想像できる余地があって楽しいんです。