「ん?どこかでこの画像を見たことあるぞ」という方、さすがです。
「まんが おかざきのれきし 第1巻」の表紙に使った写真から、岡崎城に焦点を当ててみました。
でも今日は「まんが おかざきのれきし」の話ではなく、昨日の続きで明治150年に関する話題です。
昨日の日記で明治150年関連で岡崎に関するおもしろい論考があると言いましたので、今日はちょっとご紹介したいと思います。
岡田 洋司「地方中小都市と統合原理としての”城下町”意識―一九一〇-二〇年代の愛知県岡崎市を例として―」(地方史研究協議会編『地方史研究』277号、1999年、p.36-51)
です。
考察の対象となっている年代が1910-20年代、つまり岡崎市の市制が施行された大正5(1916)年前後なので、直接明治時代に関連するわけではありません。
しかし、江戸時代が終わり、明治時代・大正時代と近代化が進む中において岡崎市がどのような意識でいたのかということを知ることができると思います。
では一体どのような意識を持っていたのかというと、題名にもあるとおり、「天下人・徳川家康の生誕地にして東海道でも屈指の繁栄を築いた城下町」です。
市制施行に前後して、近代化が遅れている、特に尾張名古屋に対して負けているという意識が当時の岡崎市にはありました。その際に、近代化を進めて町を発展させるための理由として挙げられたのが先述の城下町意識です。
ざっくり言うと、「今は近代化が遅れているけど、かつては徳川家康生誕の地で江戸時代はとても栄えていた城下町だったんだから、その繁栄をもう一度!」という考えです。
この意識がどこまで共有されていたものかまでは論文で言及されてはいませんが、少なくとも、市長(行政)と新聞社、新聞を支持する地元有力者層にはこのような考えがみられることが、論文では指摘されています。
さてさてここで、岡崎市民の方、岡崎市に興味を持ってくださっている方~。
上記の城下町意識によく似た主張を、最近どこかで聞いたことありませんか?
そう、現在の岡崎市が行おうとしているシティプロモーションや観光産業都市の依って立つところも、突き詰めれば(あるいは突き詰めずともそのまま)この城下町意識と言えるでしょう。
100年前から行政の考えることが基本的に変わっていないところに、市民性というかいっそお国柄が出ていてとてもおもしろいと思っています。(岡崎市以外の城下町にも、ある程度共通するものがあるとの指摘も論文にはありますので)
そしてこの城下町意識ですが、大正時代からいきなり平成も終わろうとしている現在に現れたものではなく、近代・現代を通してずっとある意識ではないでしょうか。
木下直之『私の城下町』には戦後を中心にそのあたりのことが書かれていまして、とてもおもしろいのでおすすめです!